長野県松本市は商工業、文化、教育をリードする中核都市だ。雄大な日本アルプスを背景に国宝松本城や旧開智学校(重要文化財)などの文化財も多く、毎年大勢の観光客が訪れている。昭和49年にオープンした飯田屋は駅前の立地条件にも恵まれ、家族連れからビジネスマン、高齢者、外国人まで幅広い宿泊客を迎えてきた。ただ、物理的な制約から一部障害のある人々にはどうしても対応できなかった。一方で、自立や社会参画意識の高まりに伴い、宿泊への問合せは毎年増加する。そこで飯田屋は改修工事を行い、3階フロアー6部屋のうち2部屋をユニバーサルデザイン仕様に設計した。
同ホテルの内ヶ島社長は、特に車いすを利用する人々の宿泊を断らざるを得ないことに忸怩たる思いを抱いていた。2年毎に改修工事を行ってきたが、空間の広さだけは解決できない。そこで今回、3つのツインルームを2つのユニバーサルデザインルームに統合し、車いすでの移動に十分な1.5倍の空間を確保することにした。通常なら宿泊料金を上乗せするところだが、同ホテルは他のツインルームと同じ料金設定。当然のことながら経営面での課題が持ち上がる。内ヶ島社長は「何よりも社会的な責任を重視しました。法制度を鑑み、多様な人々に配慮した宿泊施設を先取りしたいとの思いもありました」と語り、短期の収益よりも長期的な経営メリットを見据える。
設計にあたっては、同ホテルの改修をすべて手掛けているカミムラ建築研究室の上村所長に相談した。氏は松本市在住の設計家で開智小学校などの設計で知られている。ユニバーサルデザインにも積極的で、松本ユニバーサルデザインネットワークの副会長も務める。(以前、本コラムで松本のユニバーサルデザインモデル住宅を紹介したのでそちらも参照願いたい。)
車いす対応で上村氏が重視したのが水廻り、特に浴室だ。上村氏は今までの研究や実績でトイレについては自信があったが、風呂についてはわからない部分があったと語る。そこで氏は松本在住の声楽家、挟間氏にアドバイスを依頼した。狭間氏は33歳のときに交通事故で頚椎を損傷。(頚椎損傷とは主に頚椎(首)の骨折のことで、通常は首から下の機能がほとんど失われてしまう。)以来、車いすの生活を余儀なくされた狭間氏だが、驚異的なバイタリティで現在も全国での演奏活動を行っている。
「狭間さんの苦労談で印象的なのが公演先でのホテルです。最近になってトイレを使えるところは増えたのですが、風呂は未だ使えない。都内の一流ホテルですらそうした状況だそうです。夏はせめてシャワーを浴びたいと言っていたのを聞いて何とかしなければと思いました。」上村氏は試行錯誤を重ね、車イスの高さに合わせた樹脂製の「すのこ」を考案した。高さ調整可能で、車いすから浴槽へとトランスファー(体移動)できる。洗い場全面の大きさで、必要の無い時には倉庫に収納できる仕様だ。浴室はユニット式で、タンクの無いトイレは自動開閉式。洗面台は車いすでも利用できるよう、足元に十分な空間を確保した。
設計者として意識したのがユニバーサルデザイン、つまり特殊仕様を一切感じさせないデザインだ。通常のツインルームよりも1.5倍の広さなので、ベッド周りやデスク、バスルーム楽に移動できる。バスルームは引き戸なので開閉する際の体の動きが少なくてすむ。もちろん段差は無い。ベッドは車いすの座席と同じ高さにすることでトランスファーを容易にしている。「設備に関してもかなりのコストアップになりますが、あくまでもユニバーサルルームとして使用することによって、逆に可動率があがるのではないかと期待を込めました」と上村氏。こうしたビジネスホテルの試みにより、多様な人々が気軽に出張や観光に出かける機会がますます増えていくに違いない。