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#18 アフリカの知的障害者サッカー |
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2002年8月、もう1つのワールドカップと銘打たれた「2002INAS-FEDサッカー世界選手権」が、東京都、神奈川県の13会場を舞台として開催され、決勝戦には約3万人の観客を集めるなど、人々に多くの感動を与えて幕を閉じました。UDは先進国、金持ちクラブのお題目か? そんな疑問を抱えながら、マリ共和国と日本チームの試合を通じて、スポーツがもつ根元的なユニバーサリティを探ってみました。
北岡敏信(UDC主任研究員)
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【写真左:マリ共和国のスターティングメンバー、写真右:バックスタンドに掲げられた両国国旗】
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サッカー好きを唸らせる好プレーの連続
IQの検査方法は国によりバラつきがあるが参加資格はWHOが保証
経済の尺度では貧困だが政治的に安定し治安はいい
20数部族が一体となれる国民統合の装置
大使インタビュー
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サッカー好きを唸らせる好プレーの連続 |
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8月15日午後5時、横浜・三ツ沢陸上競技場、バックスタンドに国旗が掲げられたピッチに両国の国歌が流された。日本代表のユニフォームはフル代表と同じ「青」、対戦相手のアフリカ・マリ共和国のユニフォームもフル代表のそれと同じだ。
キックオフの笛が鳴らされると、「走れ! ○○くん」と書かれた養護学校の垂れ幕が下がるスタンドから、歓声がわき起こった。応援スタイルもフル代表と同じ。この大会が「もう1つのワールドカップ」といわれるゆえんである。
「高校サッカーのレベルにはある」、「無料で観戦できるのは申し訳ない気がする」、「B級映画を観るより、ここに来て良かった」。福祉がどうのには興味のない、ただのサッカー好きの人たちの会話だ。
実力が拮抗する両チームの試合は白熱の度合いを増していく。ピッチに立つ22人のプレーに、スタンドは知らずらず知らずのうちにのめりこんでいった。スタンドの一角を埋めた赤いはっぴ姿の一団は、日本チームのキャプテン宮原有樹くんの応援に駆けつけたビックカメラの人たちだ。
彼は一般枠の試験で採用された4年目の社員で、商品管理部に勤務し、数人の部下をもつ。代表選手のほとんどは、軽度の障害をもつグレーゾーンの人たちで、彼のように会社勤めの人もいるし、養護学校の生徒もいる。
チーム最年少は16歳の若林弥くんだが、比較的軽度の生徒が在籍する産業技術科の中でも、彼の運動能力は図抜けている。代表選手の運動能力は障害のない人の平均レベルよりも高く、オフサイドトラップなどの組織戦術も難なくこなす。マリ・チームも同様だ。選手の中には、見事なフェイントをかけて何人ものディフェンダーを抜いていく超高校級の選手もいる。
「障害者のサッカーだから応援しよう」と訪れた観客も、ただのサッカー好きと同様、ピッチ上で展開される激しいプレーに魅せられていった。
そしてバーを叩く惜しいシュートが何本かあったが、前半を0 - 0で終了した。
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【写真左:オレンジ色のTシャツはボランティア、写真右:胸に手を当てて国歌を口ずさむマリ選手】
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IQの検査方法は国によりバラつきがあるが参加資格はWHOが保証 |
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東京・日比谷の「2002 INAS-FEDサッカー世界選手権」事務局を訪ねたのは、世界中がワールドカップの熱にうなされている6月のことだった。公式パンフレットに「ユニバーサルデザインの考え方を体現したユニバーサルイベントを目指します」と明記されていたのが赴いた理由だ。
第1回大会は1994年オランダで行われ、4年に1度のワールドカップ開催年に開かれるこの大会は、今回で3回目を迎える。世界16か国・地域が参加し、東京都・神奈川県の13会場で実施。主催は世界知的障害者連盟(INAS-FED)。16チームが4組に分かれ、1次リーグを戦い、各組上位2チームが決勝トーナメントに進む。
一般的にIQ75以下の人が知的障害者とされるが、検査方法は国によりバラつきがあるのが実状だ。2000年のシドニー・パラリンピックの知的障害部門で、スペインのバスケットボール・チームに障害のない選手が参加していることが判明。同国連盟会長は国際知的障害者スポーツ連盟会長も兼務していたこともあり、一大スキャンダルとなった。これにより、国際知的障害者スポーツ連盟は2002年のソルトレイク・パラリンピックへの出場資格を停止された。
知的障害者スポーツの世界大会にはこのように、競技の公平性が保てるかどうかの問題がつきまとう。今回の大会については「参加選手のIQはWHOが保証している」というのが事務局の答えだ。
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【写真左:スタンドの一角にはマリの応援団も、写真右:マリには超高校級のプレーヤーもいる】
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経済の尺度では貧困だが政治的に安定し治安はいい |
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マリ・チームには同国サッカー協会副会長のモスタール・バ氏が同行。彼自身、身体に障害をもち、車イスの生活を送っている。ハーフタイムにマリ・チームのベンチに彼を訪ねた。
「日本は初めてだがとても気にいっている。宿泊・食事・移動、どれをとっても、この種の大会としては素晴らしい。後は勝ち星を挙げるだけ」。長旅の疲れを感じさせることなく、彼はそういって笑った。
西アフリカの内陸部に位置するマリは、アフリカの中でも貧しい国の1つに数えられている。旧宗主国フランスのアシェット社で発行されている資料によれば、1人当たりの年間所得は250USドル(約3万円)、識字率は32%(15歳以上)、幼児死亡率は13.4%、平均寿命は47歳。
しかし、現地での活動経験が長いNGO関係者によれば、「夜間でも女性の1人歩きができるほど治安はいい。数多くの国際会議や国際競技会の舞台となるのも治安の良さからかも。小学校や病院が不足しているように問題はいろいろあるが、西アフリカの中では政治的に安定し、農村社会の良さを残しているのも確か」ということだ。
両チームの選手がピッチに入場してきた。選手の表情からは、「勝ち」にこだわるモチベーションの高さがうかがえる。両チームとも1次リーグで勝ち星を挙げる最後のチャンスである。
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【写真左:ゴール前では激しい攻防が繰り返された、写真右:赤いはっぴ姿はビックカメラの応援団】
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20数部族が一体となれる国民統合の装置 |
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ゴールネットが揺れると、日本チームの応援で埋まったスタンドから悲鳴が洩れた。マリ・チームの得点者はコーナーフラッグまで走り、歓喜の雄叫びを上げている。スコアは0 - 1。時間帯から見て、押され続けている日本が同点に追いつくのは至難の業だ。試合は0 - 1のまま進み、終了の笛が鳴らされた。
「コングラテュラシオン!」。ピッチに下りてバ氏にそういうと、彼は満面に笑みを浮かべた。車イスで大陸間を移動した疲れもこの1勝で吹っ飛んだことだろう。
ピッチでは選手へのインタビューが行われている。マリ共和国の人口は約1000万人で、20数種の部族で構成される。それぞれ独自の言語をもち、公用語はフランス語だ。フランス語ができない選手もいれば、流ちょうにインタビューに答える選手をもいる。しかし言葉はいらなかったのかもしれない。汗がしたたり落ちるいくつもの褐色の顔に達成感や充実感が刻まれていたからだ。「識字率30%の国で、知的障害をどのように判定するのだろう」。彼らのプレーを見て、そんな疑問はどうでもよくなっていた。
世界初の知能検査法「ビネー・シモン法」がフランスで開発されたのは1905年である。日本で初めて知能検査が行われたのが1908年で、知的障害と精神障害の違いが広く認識されるようになったのは戦後のことだ。西アフリカの国々では、高等教育を受けた人の中でも両者の違いを答えられる人はまだ少ないという。
スポーツはもともと人種・国籍の壁を難なく超えるユニバーサリティを有している。そして世界でもっともポピュラーなスポーツであるサッカーは、20数種の部族から構成されるマリ共和国では国民統合の装置でもある。
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【写真左:選手の入場と同時にスタンドから大歓声、写真右:得点を挙げた選手が雄叫びを上げる】
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大使インタビュー |
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障害者スポーツ環境はまだまだですがサッカー文化は根付いています。
−福祉制度についてお聞かせください。
マリは発展途上の国です。社会政策の優先事項は教育と医療の2つで、日本や欧米のような福祉制度は整っていません。盲学校や養護学校はありますが、その数は少なく、家族や地域で支え合っているのが実状です。
しかし逆の見方をすれば、障害をもっていても、大家族の構成員として、みんなといっしょ。高齢者問題も存在しません。マリの社会では年長者が尊敬されるので、死の瞬間まで家族とともに尊厳ある生活を送ることができます。
社会に息づくこのような連帯感は、‘見えざる社会保障’といっても過言ではないでしょう。すでに経済発展を遂げた国々でも、過去には同じような連帯感があったはずです。それが経済発展とともに失われていった。仮にマリが日本並みの経済発展を遂げたとしても、社会の連帯感は生き続けてほしい。マリ人のメンタリティなら、それは可能だと思います。
−知的障害者サッカーで日本はマリに敗れましたが、障害者スポーツの現状はどうですか。
この分野には今、目が向けられたばかりです。日本のような制度や施設はありません。そんな国が勝利できたことをとても喜んでいます。もともとマリでいちばん人気のあるスポーツはサッカーです。サリフ・ケイタ(フランスリーグのサンテティエンヌに在籍)などの選手を輩出しています。彼はマリでは知らない人がいないほどの有名人で、引退後、首都のバマコでサッカースクールを開設しました。彼の甥も、フランスリーグ(レンス)で活躍中のプロのサッカー選手です。
2002年、アフリカ選手権の開催にともない、インフラが整備されました。新しいスタジアムも、ホテルもたくさんできました。残念ながら優勝は逃がしましたが、インフラ整備という面では非常に有意義な大会でした。
障害者スポーツの環境についても、少しずつ整備されていくでしょう。
【写真:駐日特命全権マリ共和国大使、ファトゥマタ・ディアル氏】
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ファトゥマタ・ディアル(Fatoumata Diall)
1999年ヘルシンキ芸術デザイン大学(UIAH)セラミック・ガラス学科卒業。2001年、英国ロイヤル・カレッジ・オブ・アートで修士号取得。現在、フリーランスデザイナーとして、ヨーロッパ、日本を主な活動舞台として活躍。「ウエッジウッド・トラベル・アワード」等、受賞多数。イタリアやスイスの企業からも陶磁器、ガラス製品が商品化されている。
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