21世紀の社会システムをデザインする「ユニバーサルデザイン・コンソーシウム」  
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2.ユニバーサルデザインの事例と動向
 
#09 教育のユニバーサルデザイン
 
〜分け隔てのない環境がユニバーサルな精神を育てる
 学級崩壊、登校拒否者の増加、犯罪の低年齢化など子どもを取り巻く問題は、年々裾野を広げ、根を深く下ろしている。
 これまでの家庭教育、公教育のあり方を問い直す声も高い。世界的にも教育改革の大きなうねりがある。文部省もこの数年、柔軟な構えを見せている。
 教育にもユニバーサルデザインの発想法を取り入れることはできないだろうか。
 ユニバーサルデザインの理念は、誰をも取りこむことができる環境づくりである。地域のコミュニティを再生し、高齢者、子ども、障害のある人、外国人などあらゆる人が混じり合い、地域ぐるみで支援し合う考え方でもある。
 ユニバーサルデザイン社会を実現するには、まず教育段階で、さまざまな差別への意識の敷居を取り払うことが重要だ。子どもの段階で、分け隔てのない感覚を養い、互いに理解し、協働し合う方法を無意識に獲得することは21世紀の弾力ある社会づくりに絶対に必要である。
 
寺脇 研(てらわき けん)
文部省大臣官房政策課長。1952年生まれ。1957年、東京大学法学部卒業、同年文部省入省。職業教育課長、広島県教育長、医学教育課長、生涯学習振興課長等を経て現職。開かれた文部省をめざし、テレビ討論会や、全国の講演会等を精力的にこなしている。著書に『何処へ向かう教育改革』等がある。
 
安積 遊歩(あさか ゆうほ)
自立生活センター「援助為」代表。1956年生まれ。20代はじめから障害者運動にかかわる。1983年、障害をもつ人のためのサービス機関として先駆的なアメリカのバークレー自立生活センターで研修を受け、ピア・カウンセリングを日本に紹介する。著書に『癒しのセクシートリップ〜わたしは車イスの私が大好き』等がある。
 
高橋 潤二郎(たかはし じゅんじろう)
慶応義塾大学常任理事。環境情報学部教授。1936年生まれ。1958年、慶応義塾大学経済学部卒業、同大学大学院経済学研究科修了。1975年、同大学教授。イリノイ大、トロント大、ケンブリッジ大等の兼任講師を務め、政府の各種委員を歴任。1975年から地域開発研究所所長兼任。著書に『環境共生都市づくりエコシティガイド』等がある。
 
写真:寺脇 研氏   写真:安積 遊歩氏   写真:高橋 潤二郎氏
 
【写真左:寺脇 研氏、写真中央:安積 遊歩氏、写真右:高橋 潤二郎氏】
 
分離教育に反対して文部省で座り込み
さらなる情報公開が求められている
「能力」よりも「意欲」を高める教育を
IT革命は養護学校にこそ必要
学校制度のユニバーサル化が始まる
分離教育に反対して文部省で座り込み
 
高橋:ユニバーサルデザインは製品や施設などのハードばかりでなく、社会全体のあり方や制度を考えるうえで鍵になる概念です。ユニバーサルデザインの視点で、現状の教育制度の問題点を探り、21世紀の教育制度の方向性を考えていきたいと思います。
安積:私には約3年間、養護学校に通学した体験があります。そこはユニバーサルデザインとはほど遠い環境でした。排除されているという疎外感や、そこから出られないという絶望感を味わって、自己肯定することができなくなりました。
 当時はまだ「優生保護法」が生きていました。優生思想の部分が削除され、「母体保護法」に改正されたのは1996年のことです。今思うと、教育制度そのものにも絶望していたのでしょう。専門家だけでなく、当事者の話をもっと聞いてもらいたかった。
高橋:社会への絶望が自己への絶望につながり、自分とはいったい何なのだろうという疑問が湧いてくる。そのことが、障害をもたない人にはなかなかわからない。しかし単なる個人の問題としてでなく、社会の問題として考えていく必要があります。体験から出発することが重要です。私たちは近代化の過程で、当事者と専門家を分けて考えるようになってしまった。今こそ、当事者こそ専門家であるという視点を取り戻さなければなりません。
 特別な施設をつくるのではなく、障害の有無に関係なく使える施設があれば、社会全体のコストは安くすむ。そして何よりも誰もが同じものをシェアしているという意識が生まれます。
 不登校やいじめ、分離教育などの教育の諸問題は、明治以降つくりあげてきた学校制度が動脈硬化を起こしているからです。それを再構築していかなければなりません。
寺脇:同感です。そのために文部省は教育制度の抜本的な改革を進めていまります。車イスの人は建物の中に入れないということでしたので、正門前に座り込みました。今こうして文部省の会議室にいること自体、時代の移り変わりを感じ、それはそれで嬉しく思います。
 しかし分離教育の改革となると、少しずつ方向の転換をみせているのですがまだまだ。統合教育を進める北欧諸国では、聴覚に障害のある人のための学校がごく少数残っているだけです。
寺脇:車イスの人たちが、文部省の正門に座り込んでいたことは脳裏に刻まれています。当時、入省4年目の私は、他の大きな仕事で徹夜の連続でした。事態を横から見ていましたが、見ていても辛い。車イスの方々と同様に職員も辛かった。
 担当課はよりよい制度をつくろうとして、養護学校の義務化を進めたわけです。ところが、当事者から反対の声が沸き上がるし、世間からかなりす。
安積:22年前、養護学校の義務化に反対して、文部省に押し掛けたことがあきついこともいわれてしまう。
 それはある意味で私たちが権力を握っているからです。権力は悪ではなく、権力によって、何かをやめたり、つくったりすることができる。その使い方を、よく考えなければならない。
 担当者は「養護学校が義務化されれば、今まで行けなかった人が行けるようになる。よいことをしているんだ」という。しかし、外には多くの人が座り込んでいる。彼らの声に耳を傾けなければなりません。今日では情報公開とか、説明責任という言葉は当たり前のように使われていますが、20年以上前の行政にそのような感覚はありませんでした。
 人のためにやっているんだと思ったら大間違いで、それを許せないといわれることもある。それをトータルに受け止めていくのが行政だと思います。
 そういう意味で、あの事件が、私の仕事の原点になっています。当時者として参加した職員もそうです。
安積:あの時、寺脇さんと私が文部省の建物の中と外にいたなんて本当に驚きですね。
 
写真:対談風景   写真:22年前、養護学校の義務化に反対して、文部省の前に座り込む人々がいた
 
【写真左:対談風景、写真右:22年前、養護学校の義務化に反対して、文部省の前に座り込む人々がいた】
 
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さらなる情報公開が求められている
 
寺脇:障害児教育にかぎらず、1人ひとりが尊重される教育が重要です。臨教審(臨時教育審議会)の議論を通して出された結論は、教育はこれまで、教育を与える側である教師の視点から行われてきましたが、受ける側の視点に立って構築されるべきであるということです。
 臨教審では、生涯学習という言葉がはじめて使われました。学びたいときにいつでも学べる教育環境の構築がこれからますます重要になってきます。訪問教育の実施も、受ける側の都合を考えてのことです。
安積:私は今44歳ですが4歳の娘がいます。子供に障害が遺伝する確率が非常に高いので、10代や20代のときは、子供をつくろうとは思いませんでした。自立生活運動を通じて、自己肯定ができるようになってはじめて出産に踏み切ることができました。子どもに障害は遺伝しましたが、私は自分の障害についての情報や知識をたくさんもっていますので、彼女の存在そのものを喜びをもって受け止めることができました。
 それと情報公開も重要です。小学校や中学校への進学は法的には本人の自由で、学校に1日も登校しなくても、卒業証書を得ることができる。つまり、学校に行く権利を行使できなくても、一応卒業したという、この社会を生き抜くためのステータスは得られるわけです。しかしその情報が公開されているかどうかは、市町村によってまちまちです。ただ重要なことは、学校に行く行かないの権利というより、学ぶ権利そのものをどう保証するかということです。
寺脇:文部省は市町村に対して、情報公開を命令することはできません。そこはやはり市町村の判断ですが、情報公開をどんどん進めていかなければならないと思います。
 小学校のPTAは全員加入ではありませんが、そのことさえ知られていない。障害がある人は障害児学校に行かなければならないというのはおかしな話だし、行ってはいけないというのもこれまたおかしい。どちらを選ぶかの判断基準となる情報をきめ細かく提供していくことが重要です。そうすれば、当事者が自己決定できる。
 高校や大学への就学は本人の意思しだいですが、小学校への進学となると保護者が入るのは当然です。仮に障害のあるお子さんが、一般の学校で他の子どもたちといっしょにやっていこうというのなら、受け入れる側の人たちの考えも、変わっていかなければなりません。教育を地域全体の問題として捉えていく必要がある。
安積:これまでは障害児は養護学校に隔離していくという社会の強いまなざしがありました。だからこそ今、ユニバーサルデザインの視点が重要になるのでしょう。
 子どもの自己決定権についても同じです。私は子どもに、ありとあらゆること、その日何を着るとかまで含めて、決めてもらっています。大人は子どもの自己決定する力をもっと引き出し、信じていいと思います。
寺脇:小さい子どもでも、じっくり時間をかけて情報を与えていけば、判断できるようになる。安積さんは約3年で、養護学校から移られたとお聞きしましたが、途中で他の選択ができることも大切です。
 将来的には、週のうち何日か違う学校に行ってもよいというのがあっていい。どちらかに所属しなければならないというのも、それはそれでバリアです。養護学校と普通学校を分けて考えること自体おかしい。2つが同じ敷地内にあれば、いっしょにやれる時間はいっしょにやれるし、別々にやるほうがいい場合には別々にやればいい。
 
写真:安積 遊歩氏   写真:写真の車イスの子どもは、普通学校に通っている。回りはその友達
 
【写真左:安積 遊歩氏、写真右:写真の車イスの子どもは、普通学校に通っている。回りはその友達】
 
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「能力」よりも「意欲」を高める教育を
 
写真:高橋 潤二郎氏高橋:「意欲」と「能力」のどちらを重視していくのかも重要です。どんなタイプの人間をつくり上げていくかを、あらかじめしっかりと考えておく必要がある。福沢諭吉は「独立自尊」という言葉に込めて、個人の自立のないところに国家の自立なしと述べています。
寺脇:「能力」と「意欲」ということでいえば、今までの教育は能力ばかりに目がいきすぎてきた。意欲をもって自分らしくいかに生きられるかが大事で、能力だけで教育をとらまえてもだめ。学力低下論は一種のすりかえ論です。能力至上主義を温存することによって利益を得る人たちがいる。視覚に障害をもつ人に針の技術を教えられたとしても、働く意欲までは教えられません。
 私は広島県に教育長として出向していたことがあります。広島では当時から多くの障害のある子どもたちが普通学校に通学していました。その時印象に残っていることの1つに、身体に障害をもちながら少林寺拳法部に入っている生徒がいたことです。身体は動かないので、試合の時に応援するだけ。大きな声を張り上げて意欲的に応援する。その姿をみて、五体満足で、能力があっても、意欲がなければ不幸だなと思いました。空疎な知識を積み重ねても、自分で考えて自分で行動できなければ何にもならない。
高橋:30、40年前なら、欧州型の近代社会の使徒をつくり出す極めて簡単な解決方法でよかった。今は思いやりとか人間関係とかも考えないとうまくいかない。
【写真:高橋 潤二郎氏】
 
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IT革命は養護学校にこそ必要
 
写真:寺脇 研氏安積:運動を通じて数多くの重度障害のある人をみてきましたが、ほとんど寝たきりで会話のできない人もいる。障害のない人が突然、彼らの家族となったり、施設の職員となったりして、彼らから学ぼうという意欲や情熱なしにそばにいたとしても、彼らからのメッセージや共にあることの充実感をすぐに感じることは非常にむずかしいでしょう。
 障害をもつ人や子どもに耳を傾けようという気持ちがなければ、実際には隔離状況を強いるしかなくなります。
 生まれたときから私たちは、この世界には卑しい人と尊い人がいるのだと思わされています。卑しい人は貧しかったり、障害をもっていたり、人の後ろにいなければならないと思われていたりする人で、そうした差別があるということを学ぶ機会がなければ、人はなかなか変われないのです。差別を学ぶ中に人権や権利の意識も育ってきます。
 私は立教大学で、若い人達にコミュニケーションということを教えていますが、差別と人権を考えることを一番のテーマとしています。

高橋:慶応大学では今、看護医療学部をつくろうとしています。そこでは、患者を愛せる心、何事にもクールに対処できる心、エモーショナルなタフネスをもった看護婦さんを養成します。
 私は10年前に膀胱癌を患い、「障害手帳」をもっています。アメリカでその話をすると、「ベストプレイスに来たね。あなたはこれだけの権利をもっているので、それに関しては全部面倒をみてくれる」といわれる。日本では何もいわれない。いえばバスの無料券をくれるぐらいですか(笑い)。
 今年、経済学部にも湘南キャンパスにも、全盲の人が入学してきた。建物がユニバーサルではないので、分離教育のほうが効率的だという意見も出てくる。
 ある一定の期間で一定のスキルをつけるというのであれば、同じような人を集めればよい。そのほうが効率的です。私たちは明治以降、極めて効率的な教育制度ないしは学習支援制度をつくってきました。しかし、そのことへの反省が出てきています。
 文部省では寺脇さんを中心に教育制度の抜本的な見直しが始まっている。教室の段差をどのようにするかという前に、学校制度をどうするか。さらにいえば、日本の社会や文化をどうするかという問題に我々は直面しています。
寺脇:憲法26条にはすべての子供が教育を受ける権利があると明記されている。その権利を行使する自由もあれば、行使しない自由もある。行使の仕方も無制限じゃない。隣の子どもが一生懸命学習しているのに横で邪魔ばかりしているようでは、権利を制限されるのは当たり前。権利の反対は義務ではなくて責任がふさわしい。
高橋:その通りです。
寺脇:これまで権利と義務という文脈でしか語ってこなかったことが問題。権利があるということを、まず教えていく。そうすれば権利を行使するにあたって責任が出てきます。
高橋:福沢諭吉も西周もrightを訳すとき非常に困ったようです。最初は身分の「分」を当てて、「分限」の訳語を考えたが、あきらかに誤解です。
 responsibilityとはまさにresponse-ability。応答する能力です。今、重度の障害のある人がコミュニケーションを求めている。それに対して私たちは答える責任がある。
寺脇:IT革命は障害のある子どもたちにこそ必要です。一般の学校の前に、養護学校にコンピュータを整備しなければなりませんね。それによって、自分の意思を言葉で伝えられなかった人が、伝えられるようになる。
【写真:寺脇 研氏】
 
写真:害児学校ではコンピュータ教育に力が注がれている(東京都立立川ろう学校)   写真:ユニバーサルデザインが盛り込まれた国内初の大学、静岡文化芸術大学。車イスで散策できる屋上庭園は市民も自由に利用できる
 
【写真左:害児学校ではコンピュータ教育に力が注がれている(東京都立立川ろう学校)、写真右:ユニバーサルデザインが盛り込まれた国内初の大学、静岡文化芸術大学。車イスで散策できる屋上庭園は市民も自由に利用できる】
 
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学校制度のユニバーサル化が始まる
 
安積:アファーマティブ・アクション(積極的是正措置)の観点からお聞きしますが、文部省の中で女性が働いている比率、管理職についている比率は、どれぐらいなのでしょう。
寺脇:他省に比べれば高いと思います。とはいえ全体で1割強、課長以上の管理職で1割弱ぐらいが女性です。
安積:慶応では。
高橋:女性の教授はまだ非常に少ないです。今、社会は大きく揺れ動いています。「クオーター制」などを導入して、その割合を増やしていかなければいけないとは思っていますが、そのことが自由とか、他の大きな価値とぶつかってしまうかもしれない。
安積:どんどん、ぶつかったほうがいいですよ。
寺脇:男女の問題はすごく大事です。差別はあらゆるところにある。男だけ、女だけでは暮らせない。
 以前、中学校では男子には技術科、女子には家庭科が教えられていました。そうすると、男は家事をやらなくてもいいという意識が芽生える。男女一緒に家庭科を学ぶことでそういった意識が払拭されます。今の高校生と話をしていると、男女の役割分担意識が非常に薄れています。「自分の食べたものを後始末するのは、当然じゃん」という感覚ですよ。
安積:娘には宇宙という名前をつけました。宇宙には果てがない。限界がない。女性の可能性にも限界がない。そういう意味で名付けました。宇宙と書いて「うみ」と読ませます。 40歳で出産したので、フリースクールとか、いろいろな可能性を模索してきましたが、寺脇さんのお話をお聞きして、娘を公教育に預ける不快感や不安感が少し軽減されました。ところで、チャータースクールについては、どのように思われますか。
寺脇:チャータースクールとは教師、保護者、地域社会のメンバーによって運営されるアメリカの学校制度で、州のほとんどの学校規則が免除され、その地域に合った教育が行われる。契約社会であるアメリカならではの教育システムです。それが、果たして日本の風土に合うかどうか。チャータースクールは単に形式の話ですから、中身をどうしていくかが、もっと重要です。
 宇宙ちゃんは4歳だから2002年に小学校に入る。その頃から、公教育の変革はもちろんですが、多様な教育機関が認められていくようになります。いい学校をつくったから全員ここに来なさいという考え方は、いいこと教えてやっているんだから、お前が聞いて感謝するのは当たり前という考え方につながっていく。そうじゃなくて、こういう小学校を用意しました、1回来てください、でも他の学びの場も結構ですよという選択肢を広げておく。
安積:それが実現されれば、いろいろな可能性のある公教育が生まれますね。もっとも私が教育に必要だと思うのは、自己信頼と競争原理ではなく助け合うことをテーマに置いた教育です。
寺脇:自分を否定する気持ちをもたないでいられる教育が求められています。自分ってけっこういいんだと思える教育。差別というのは、自分がだめだという気持ちから、もっとだめな奴を探すことから始まります。
高橋:そう。これまでの教育は、社会に役に立つ人間を送り出すことだけを目的としていた観があります。そんなものを超えた人間像をつくっていかなければなりません。近代化の過程で失ったやさしさとか思いやりが復権されるべきです。そのためにも、ユニバーサルデザインが必要になってきます。
 
写真:木彫工房では少人数制できめ細かな事業が行われている(静岡文化芸術大学)   写真:人体の特性を計測する「上肢・下肢測定器」(静岡文化芸術大学)
 
【写真左:木彫工房では少人数制できめ細かな事業が行われている(静岡文化芸術大学)、写真右:人体の特性を計測する「上肢・下肢測定器」(静岡文化芸術大学)】
 
※以上は、季刊「ユニバーサルデザイン」06号(2000年9月発行)に掲載した記事を再編集したものです。
 
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